どうも皆さんこんにちは、いろ覇です。
世界各地で行われたワールドカップ予選。
その中でもとりわけ注目を集めることになったこの1戦について今回は見ていこうと思います。
はじめに
サッカードイツ代表はデュイスブルクにあるMSVアレナで現地時間3月31日20:45にキックオフした北マケドニアとのワールドカップ欧州予選に1vs2で敗れました。
ドイツがホーム開催のW杯予選で敗北したのは2001年9月1日にミュンヘン・オリンピアシュタディオン(アリアンツ・アレナが完成する前のバイエルン・ミュンヘンのホームスタジアム)で行われた対イングランド代表戦以来20年ぶりという事でこのニュースは強い衝撃をもって各地に伝えられています。
そのイングランド戦では当時ノリに乗っていた"ワンダーボーイ"マイケル・オーウェンのハットトリックなど計5失点の大敗だったのでトラウマになっている方も多いかもしれませんが、今回敗戦した北マケドニアはFIFAランク65位と格下にカテゴライズされる相手だったのでショックの大きさでは20年前に負けず劣らず。
試合を振り返る
ベンチ入り
ドイツ:1トラップ、2 P.マックス、5 J.ター、8ムシアラ、9ヴェルナー、11 A.ユネス、12レノ、13クロスターマン、14ノイハウス、17ヴィルツ
北マケドニア:2ベイトゥライ、3アシュコフスキ、4リステフスキ、7ラデスキ、11ハサニ、12ボガティノフ、18ストヤノフスキ、19ヴェルコスキ、20スピロフスキ、22シーシュコフスキ、23イブライミ
前評判通りドイツが前半から主導権を握る展開が続きボール支配率はおよそ7:3の推移。
31分には左からのクロスでニャブリにゴールチャンスが訪れますがシュートはクロスバーの上を越えていきます。
対する北マケドニアは40分にアリオスキの右サイド深い位置からのFKが脅威になりかけたくらいでほとんど得点の匂いを感じないまま前半ATに突入。
しかし、AT2分にアリオスキが今度はオープンプレイからチャンスを演出。
左のペナルティエリア角付近からサイドチェンジのロブパスをバルディに通しそのバルディはエムレ・ジャンの目の前に空いたポケットに完璧なラストパスを成立させて最後は同国のレジェンド ゴラン・パンデフが冷静にシュートを決めて先制に成功したのは北マケドニアでした。
前半終了間際に先制点を許したドイツは56分にフランクフルトで大活躍中のアミン・ユネス、そして代表の次期エースとして期待されるティモ・ヴェルナーを投入し攻撃の圧力を強めます。
すると62分にゴレツカのパスを受けてボックス内をドリブルで崩したレロイ・サネがアリオスキに倒されPKを獲得。
キッカーを務めたギュンドアンはGKが我慢しきれずに動き出すのを待って真ん中にシュートを放ってドイツは同点に追いつきますがこの試合はここから悪夢のような30分が待っていました。
80分にはカウンターのチャンスからティモ・ヴェルナーに最高のお膳立てパスが渡されますがクラブでも決定機を外して批判の声に晒されているこのFWは代表戦でも致命的なシュートミス。
そして85分、左サイドからの攻撃で途中出場のマケドニア2番ベイトゥライがスペースに走りこむ5番アデミに縦パスを通し、ボックス内に侵入したアデミはシザースで対面するリュディガーの体勢を崩すと股の間を抜く見事なクロスを送り最後はエルマスがファーサイドにコントロールショットを決めて北マケドニアは再びリードに成功。
試合はアウェイの北マケドニアがドイツを1vs2で下して勝利
北マケドニアの2ゴールはいずれもドイツのCBとサイドハーフ(ウイングバック)間のマークの受け渡しの拙さを狙った計算されたプレーでした。
この敗戦によってドイツはW杯欧州予選3試合を終えて2勝1敗で勝ち点6。
全勝の首位アルメニアからは勝ち点差3、そして今回敗れた北マケドニアにも得失点差で越され現時点でプレーオフ進出圏外の3位と思わぬ足止めを食らいました。
動画ハイライト
北マケドニア?いつから国名が変わったのか
この表記を見た時に真っ先に感じた疑問はこれで、マケドニアは旧ユーゴ圏の国なのでもしかすると分裂でもしたのか?と疑いましたがそれならばニュースになっていないのはおかしいので真相を確かめてみました。
そもそもマケドニアという地名は古代ギリシャ時代の地理区分がもとになっていて、当時は現在のギリシャ、ブルガリア、アルバニアのそれぞれ1部分に跨る今より大きな領土が”マケドニア”と呼称されていました。
その後この地で建国されたマケドニア帝国はアレキサンダー大王(アレクサンドロス大王、イスカンダル)が遠征に勝利し続けてペルシャ地方やインドの一部までも支配領域に加える全盛期を迎えるに至るのですが、今回の話からは脱線するので割愛。
そして、現在の北マケドニア(旧マケドニア)が国家として独立したのは1991年のことで、独立当初から古代マケドニア地方とより歴史的、民族的な継承性が強いとされるギリシャがこの名前に関して猛反発をして、一時は経済制裁までも科していました。
北マケドニアの国民の中で最も多いマケドニア人は5世紀~7世紀にこの地へやってきたスラブ人の子孫で、古代マケドニアとは関係の薄い国がその名称を使う事に不満を抱いたというのがギリシャ反発の要因だったようです。
そして名称に関してもEUやNATOへの加盟をギリシャの強い反発によって常に遮られ続けてきたマケドニアが遂に折れるような形で国名変更に至ったというのが事の真相。
日本語表記では2020年4月1日から公式に「北マケドニア共和国」に統一されたとのことなので未だにこの変更に関して知らなかった方も多いのではないでしょうか。
近年のマケドニアといえばフェイクニュースの一大発信地としての悪名が轟いていましたが、西欧諸国との距離感が以前より近くなり始めている事でこの状況にも変化が生まれるかもしれませんね。
参考
あとがき
過去数年の国名変更の例を見ると他にはエスワティニ(旧スワジランド)、ジョージア(旧グルジア)などがありますが、私の場合いずれのケースでも旧名称で覚えてしまっているので言い間違いのない様に気をつけなければいけないなぁと反省。